SFと“喪”の時代
SF(サイエンス・フィクション)は、かつて技術革新や未来社会への想像を駆動するジャンルとして発展してきた。宇宙開拓、AI、タイムトラベル――これらの題材は人類の「進歩」や「可能性」を象徴する物語を紡いできた。しかし近年、SFは「未来」よりも「喪失」や「停滞」、あるいは「終わり」を描くジャンルへと静かに変容している。
2017年にNetflixで公開されたチャーリー・マクダウェル監督の『The Discovery』は、その典型例である。死後の世界が科学的に証明されたという設定を出発点としながらも、この映画が描こうとするのは、死の向こう側の奇跡ではなく、むしろ「いかにして死とともに在りつづけるか」という問いである。
本論では、『The Discovery』が描く死後世界を、「現実そのものが死の世界である」という視点から読み解き、さらにその物語構造がいかにして“成長しないこと”を成熟として描いているのかを考察する。そしてこの物語がSFとして提示する死後世界が、実のところ喪の処理と虚構の構築を通じた個人的な神話装置であることを明らかにする。
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「死んだように生きる現実」とは何か
『The Discovery』の物語は、「死後の世界が科学的に証明された」というニュースとともに始まる。この発見以降、社会では自殺者が急増し、多くの人々が「別の人生をやり直せる」ことを信じて自ら命を絶っていく。だが、この状況を導入部として受け取るとき、観客はすでに違和感を抱くはずだ。なぜなら、登場人物たちは皆「生きている」にもかかわらず、その表情や生活からは、生の手応えがまるで感じられないからである。
ここでの“死”とは、肉体の死ではなく、感情や選択、関係性が断絶された状態を意味している。つまり、『The Discovery』の世界は、“死後の世界”ではなく、“死んだように生きる世界”として提示されているのだ。物語序盤から、主人公ウィルを取り巻く人々は過去に囚われ、抑圧され、誰もが「今ここ」に存在していない。科学的に証明された死後世界という設定は、実際には彼らの精神状態を外化した装置であるとすら言える。
この意味で、『The Discovery』における死とは、存在の終わりではなく、「意味の欠如したまま続く状態」であり、むしろ「現実のあり方」そのものに等しい。死後世界に魅せられる人々は、現実世界における喪失や後悔を抱えたまま、それを修正できる別の場所を求める。だが彼らが求めているのは“次の人生”ではなく、“やり直し可能な過去”なのである。
映画全体がこの「喪の風景」の中で展開されていると見るならば、科学的死後世界というモチーフは、喪失から目をそらし、補填しようとする幻想の構築物として読める。すなわち、死後世界とは、現実から目をそらすための“夢”であり、それにすがることは同時に、「死んだように生きる」ことの延長線上にある。
ウィルが「現実と幻想は同時に存在できない」と語る言葉は、この構造を暗示している。幻想を抱えたままでは、現実には触れられない。だが、その幻想を通過しなければ、現実を再び手に取ることもできない。『The Discovery』は、その矛盾を内包したまま、“死の中で生きること”を描きつづける。
記憶と空間:幻想の再配置
『The Discovery』では、舞台となる空間が常に閉鎖的である。廃病院のような研究施設、外界から切り離された海辺の屋敷、薄暗く静止した記憶の中の空間。これらはすべて、「現実の場」であると同時に、登場人物たちの記憶と情動の投影として機能している。
特に印象的なのは、主人公ウィルが繰り返し夢想する「島」である。そこは彼にとって後悔と喪失が結びついた記憶の場所であり、同時に「やり直しの幻想」が具現化された舞台でもある。彼が何度もその場所に“戻される”のは、実際の死後世界に迷い込んでいるからではなく、未完了の感情と向き合うための心理的反復である。
精神分析的にいえば、これらの空間は“夢”の構造を反映している。フロイトが夢を「願望充足の場」とし、ラカンがそれを「無意識の言語的構造」と捉えたように、『The Discovery』の空間もまた、語られない欲望と記憶が織りなす象徴的領域である。
物語のなかで登場する装置(脳波を測定し、死後に意識が移動する様を記録する機械)も、実在の技術というより、抑圧された記憶にアクセスするための幻想的メディアと見ることができる。つまりこの映画においては、科学的装置の外観を持ちながら、その機能はきわめて内面的で、象徴的だ。
死後世界とは、遠い異界ではなく、極めて私的な心象空間として描かれている。だからこそ、映画全体が“閉じた空間”のなかで進行し、登場人物たちは“外の世界”へ向かうことができない。彼らは、場所と記憶と感情が交錯する「内側」に、閉じ込められている。
このように『The Discovery』は、物語の舞台を物理的空間としてではなく、喪の記憶のマッピングとして再構成しており、その空間美学自体が、「喪をどのように生き延びるか」という問いへの応答となっている。
「救うこと」から「共にいること」へ
『The Discovery』の終盤、主人公ウィルは自らが繰り返し戻されている“死後の世界”が、実際には「自分がやり直したいと願った記憶」の反復であることに気づいていく。重要なのは、彼がかつて「救おう」としていた女性アイラとの関係性の変化である。彼女の死を避けさせようとするたびに、別の結果が生まれ、また別の死に行き着く。
やがてウィルは、彼女の人生を“助ける”のではなく、ただ“共に存在する”という在り方へとシフトしていく。これは大きな転換である。死を回避させること=救済、という直線的な目的論から離れ、相手の他者性を受け入れたまま関係を持ちつづけるという選択。
この構造は、近年のフィクションが描き始めた「ケア」の倫理、つまり“完治”や“解決”を目的とせず、損なわれたままの状態を支えあう関係性と強く重なっている。『マンチェスター・バイ・ザ・シー』が示したように、「もう戻れない」「どうしても乗り越えられない」出来事のあとで、それでも共に日常を続けることこそが、人間的な成熟のひとつのかたちとして描かれているのだ。
『The Discovery』における死後世界は、「救済」を志向するものではなく、「共存」を模索する場へと変化していく。これは、現代的な“ポスト救済”の物語であり、同時に、癒されないことを引き受ける勇気の物語でもある。
成長なき成熟:ゼロ成長ナラティブとしての再解釈
『The Discovery』が描く死後世界は、決して“次なる進化”や“新たな人生”を肯定する物語ではない。むしろ、何度もやり直しが試みられるにもかかわらず、決定的な変化やカタルシスは訪れない。この繰り返しのなかで語られるのは、「変わらなさを引き受けること」そのものが成熟であるという現代的な姿勢だ。
かつての物語構造においては、「主人公は過去の傷を乗り越え、成長する」ことが期待された。しかし本作では、傷は癒えないまま残り、過去は繰り返し現れる。それでも、ウィルはその中で「選び直す」ことを続ける。変化のないなかで微細な選択を重ね、そのなかで「共にある」ことを学ぶ。
この構造は、経済成長が停滞し、社会的流動性が乏しくなる現代において、多くの人が直面する“変われなさ”の実感と強く共鳴する。すなわち、「ゼロ成長」の時代における物語の倫理であり、成長や前進だけでは語れない「そのままで在り続ける力」が主題化されているのだ。
『The Discovery』は、SFの形式を借りながら、古典的な成長神話とは異なる美学を提示する。そこでは、再生や希望ではなく、反復と停滞のなかにある“わずかな選択の重み”が描かれる。これこそが、現代における成熟のあり方であり、「死とともに生きる」ことの倫理的形式でもある。
『ラ・ジュテ』との対比と実存的構造
クリス・マルケルの短編映画『ラ・ジュテ』(1962年)は、『The Discovery』と同様に「時間」「記憶」「死」をめぐる作品でありながら、その構造と美学には明確な違いがある。
『ラ・ジュテ』は、静止画によって構成され、未来と過去を行き来する男の姿を通じて、「記憶されたイメージに囚われること」がいかに個人を死に導くかを描いている。主人公は少年時代の“ある記憶”――空港で女性を見た瞬間――に執着し、未来の人類を救う手段としてその記憶を辿る。だが、最終的に彼はその記憶の場で、自身の死の瞬間に遭遇することになる。
この構造は、『The Discovery』における“喪の反復”とは異なり、むしろ「過去に囚われた結果としての死」という実存主義的な運命を描いている。ここでの時間は、選び直しが可能な回路ではなく、因果の罠である。
『The Discovery』では、死後世界は「喪をめぐる夢の変奏」として展開される。過去は回帰し、別の選択肢が模索され続ける。そのなかで重要なのは、選び直しの可能性があるという感覚そのものであり、これはある種の「夢の倫理」に基づいている。一方で、『ラ・ジュテ』の時間は冷徹であり、**「すでに決定された運命に回帰するしかない」**という構造をとる。
また、『ラ・ジュテ』は全体がナレーションによって進行し、記憶や出来事がすでに語られた物語として提示される。その語り口にはある種の“神の視点”があり、観客は登場人物の内面よりも、構造としての物語の運命に焦点を合わせることになる。これに対して『The Discovery』では、語りの外部性が極力排除され、観客はウィルの主観的な視点とともに、彼の内面の迷路を彷徨うような体験をする。
この違いは、喪失をめぐる映画における時間と主体性の扱いの差異でもある。『ラ・ジュテ』は「物語の構造としての死」、『The Discovery』は「生き残る者の内面にある喪の夢」として死を描いている。
どちらの作品も、過去への執着が中心的なテーマでありながら、そこから導き出される結論は対照的である。前者が実存主義的な“終焉の受容”に着地するのに対し、後者は“変われなさの中でなお生きること”への信頼を描く。
この比較によって、『The Discovery』が提示している“ゼロ成長”の倫理、そして夢としての死後世界の構造が、より明確に浮かび上がってくる。
結論:私的神話としてのSF
『The Discovery』は、SFというジャンルの形式を借りながら、喪と記憶、実存と選択、そして「変わらないこと」の倫理を描いた作品である。その物語は、死後の世界をめぐる科学的議論やオルタナティブな人生の可能性を提示するように見えながら、実際にはひとりの人間が喪を受け入れ、他者と共にあることを選び取るまでの個人的な神話として機能している。
死後世界は、客観的な装置ではなく、主人公ウィルの記憶と後悔、そして「もしも」にまつわる願望の投影である。それは科学というより夢に近く、制度というより内面に沈殿した喪失の反復である。だからこそ、この物語は“未来に向かうSF”ではなく、“過去にとどまり続ける夢”のかたちを取る。
作中で「死後の世界の映像」として提示されるシーンもまた象徴的である。それらは洗練された映像ではなく、古いホームビデオのような質感で、むしろホラーやビデオアートの文脈に近いざらつきを持っている。この演出は、死後世界が「科学によって再現された現象」ではなく、記憶が亡霊のように立ち上がる呪術的なプロセスであることを示唆している。死とは不可視の他者ではなく、再生されつづける映像=喪の断片であり、それを覗き込む行為自体が“死んだように生きる”視線へと変容してしまう。
『The Discovery』の提示する死とは、終わりではない。それは「変わることができないという状態」としての死であり、同時に「そのままで共にあることを選ぶ」という形での生でもある。この矛盾を受け入れること――それこそが、この映画が描く成熟のかたちであり、死後世界という構造を通じて編まれた現代的な神話の核である。
「選び直すことはできない、だが、見つめ直すことはできる」――そんな態度が、この映画の終わりに宿る静かな希望であり、それは“癒されないものと共にある”という倫理を生きる私たちにとっての、ひとつの物語の形でもある。
『The Discovery』は、ゼロ成長の時代におけるSFの新たな地平を示している。そこでは、進歩や克服ではなく、夢と反復と共存が、静かに語られる。