先日、自分たちが製作に携わった短編映画の上映があったので、札幌国際短編映画祭に行ってきた。
思っていた以上に大規模な映画祭で、一度の上映で300人近い観客に作品を見てもらえるという有り難い機会だった。海外からの出品も多く、映像や音響の完成度にも驚かされた。映画祭というものに久しぶりに参加したが、改めて映画というメディアの持つ豊かさを感じた。
ただ、そうした作品を見ているうちに、映画の内容とはまた別のことが非常に気になり始めた。
一体、これらの映画はどういう経緯で作られたのだろうか。
今回、自分たちはいわばクライアントの立場で映画を製作した。監督に依頼し、作品が成立する過程に関わったわけだが、映画祭に登壇した際も、監督との関係性について聞かれることが多かった。
一方、他の作品では監督や俳優が登壇することが多く、作品の意図や表現については語られても、そもそも誰が、どのような背景や資金、製作体制のもとでその作品を実現させたのか、という話はあまり聞くことができなかった。
もちろん、今回自分が参加した上映に限った印象ではある。しかし、非常に質の高い、相応の予算がかかっていそうな作品も多かっただけに、その成立過程の方にむしろ興味があった。
映画監督という「作家」
直接的には関係のない話なのだが、以前、建築家の友人が「建築家は大きい仕事をやる人ほど、自分が世界を作っていると錯覚しがち」と話していたのを思い出した。
もちろん、建築家も映画監督も、全員がそうだという話ではない。ただ、建築も映画も、多くの人間の協働によって成立するものでありながら、最終的には特定の個人の名前と結びつけられやすい。
とりわけ映画では、監督という存在が一種の芸術家として特別な位置を占めているように思う。
もっとも、映画監督が作品の中心的な作家として位置づけられるようになったのは、映画の歴史全体から見れば必ずしも当然のことではない。
例えば、1920年代から40年代のハリウッドでは、スタジオ・システムのもとでプロデューサーや製作会社が大きな権限を持ち、監督もその組織の一員として映画製作に従事していた。
1950年代になると、フランスの『カイエ・デュ・シネマ』を中心に、映画監督を作品の作者として評価する作家主義が発展する。監督固有の表現や美学を作品の中に見いだそうとする批評的な立場である。
ここで重要なのは、作家主義が単に監督という肩書きに権威を与えようとしたものではなく、既存の製作体制の中にあっても、監督の個人的な表現が作品に刻まれていることを発見しようとした点だと思う。
その意味で、監督の作家性を重視すること自体に異論があるわけではない。
むしろ、監督がどのような人々と協働し、どのような制約の中で、何を選択し、何を実現したのか。そうした関係性や判断もまた、作家性の一部として評価されるべきなのだろう。
だとすれば、その製作過程が観客から見えにくいことは、少し不思議なことでもある。
なお、かつてプロデューサーやスタジオの権限が強かったことと、当時の観客に製作過程が開示されていたことは別の話である。だから、単純に昔の映画産業へ回帰すべきだとは思わない。
ただ、映画製作における主体が、歴史的にも監督一人に限られてこなかったという事実は、改めて考えてみてもいいのではないだろうか。
作品の完成度と、製作の意志
もう一つ、最近気になっていたことがある。
デリケートな話になるのだが、映像や音楽は非常に優れているにもかかわらず、作品全体として見たときに、どこか充実感や必然性が感じられない映画に出会うことがある。
以前、映画をよく見ている知人にそのことを相談したところ、「それって結局、監督のセンスがないからだよ。だって映像や音楽は頼んだ人が優秀ならなんとかなっちゃうからさ」と言われて、たしかに、と思った。
映画は総合芸術である。個々の要素が優れていることと、それらが一つの作品として有機的に結びついていることは、必ずしも同じではない。
だからこそ、監督の構想力や判断力が問われる、というのはよく分かる。
ただ、そこでもう一歩考えたい。
その作品を作ろうとした意志は、果たして監督一人のものだったのだろうか。
そもそも、その企画は誰が考えたのか。誰が実現したいと望み、誰が資金を用意し、どのような経緯で監督が参加したのか。
監督自身が強い問題意識を持って立ち上げた企画もあれば、プロデューサーが企画したもの、企業や個人が資金を出したもの、公的な助成や教育機関の支援を受けて成立したものもあるだろう。
当然ながら、製作の経緯が異なれば、監督に与えられた裁量や作品に求められた役割も異なる。
完成した作品だけでは、その違いは必ずしも明らかにならない。
もちろん、映画は製作者の意図に沿っているから優れているわけでもなければ、製作背景が興味深いから優れた作品になるわけでもない。作品は作品として評価されるべきだと思う。
しかし、その成立過程を知ることで、作品の見え方が変わることはある。
むしろ、映画がどのような条件のもとで作られたのかを理解することは、監督の作家性をより立体的に捉えることにもつながるのではないだろうか。
映画祭で語られないもの
映画祭という場についても考えてみたい。
映画祭には、優れた作品を発見し、観客に紹介する役割がある。同時に、作品や作家が評価され、新たな製作や上映につながっていく場所でもある。
もちろん、映画祭によっては企画開発や共同製作を支援するプログラムも存在する。したがって、映画祭そのものが監督以外の製作者を軽視している、と単純に言うことはできない。
ただ、一般の観客が参加する上映や舞台挨拶において、そうした製作の構造がどれほど共有されているのだろうか。
今回の札幌では、作品のテーマや監督の表現意図について聞くことはできても、作品が生まれた背景については、あまり知る機会がなかった。
個人的には、特に短編映画だからこそ、そうした話がもっと聞けてもいいのではないかと思う。
短編映画は長編の商業映画と異なり、劇場興行だけで製作費を回収することが難しい場合も多い。では、どうしてこれほど完成度の高い作品を製作することができたのだろう。
資金を提供した人は何を期待していたのか。映画祭への出品は最初から想定されていたのか。監督と製作者の間には、どのような関係があったのか。
これは作品の裏話を知りたいという好奇心だけではない。
映画がどのような社会的・経済的な条件によって成立しているのかを理解することは、映画という文化そのものを理解することでもあると思う。
製作の可視化は、誰のために必要なのか
そして、今回一番考えるようになったのは、製作背景を可視化することが、映画を作る人の裾野を広げる可能性についてである。
映画を作る、というと、まず監督や脚本家、撮影者になることを想像する人が多いのではないだろうか。
しかし、映画製作への参加の仕方はそれだけではない。
自分で映画を撮る技術がなくても、企画を立ち上げることはできる。作りたい作品のために監督を探すことも、資金を集めることもできる。場所を提供したり、製作会社と作り手をつないだりすることも、一つの製作活動である。
例えば、ある地域を題材にした映画を作りたいと考える人がいたとする。その人自身が映画監督になる必要はない。企画を考え、監督やスタッフと協働し、映画として成立させる方法もある。
けれども、そうした事例や仕組みが十分に知られていなければ、そもそも自分が映画製作に参加できるとは思わないかもしれない。
映画がどうやって作られるのかを知ることは、自分も映画を作る側に回れるかもしれないと気づくことでもある。
ここに、製作過程を可視化する一つの意義があると思う。
これは何も、すべての作品の予算や契約を公開すべきだという話ではない。
作品によっては公表できない事情もあるだろうし、製作の自由を守るために秘匿されるべき情報もある。
ただ、どういう発想から企画が生まれ、誰がそれを実現しようとし、どのような支援や協力によって完成に至ったのか。そうした基本的な経緯を共有することは、もっと一般的になってもいいのではないだろうか。
監督だけでなく、プロデューサーや製作会社、出資者、あるいは映画を作ろうと発案した人が、自分たちの立場から作品について語る機会が増えてもいい。
そして観客が、単に作品を鑑賞するだけでなく、その製作過程に関心を持ち、質問したり、将来的に参加したりできるようになれば、映画祭という場所もまた違った意味を持ってくるように思う。
映画を作るということ
今回、札幌で多くの海外作品を見て、映画の表現そのものにも感銘を受けた。
一方で、作品が優れていればいるほど、それが一体どのような人々の意志や協働によって成立したのか、気になってしまった。
考えてみれば、これまで自分も音楽やイベントの企画を行う中で、表現する人だけでなく、それを実現させる人や場所の重要性を実感することが多かった。
優れた表現が生まれるためには、それを可能にする環境も必要になる。
もちろん、だからといって製作側の存在を過度に持ち上げたいわけでもない。監督の作家性を否定し、その権威をプロデューサーや出資者に移し替えるだけでは、あまり意味がないように思う。
むしろ、誰か一人の名前に還元することのできない、多様な関係性の中で作品が成立しているということ自体に、もっと関心が向けられてもいいのではないか。
映画を作ることは、必ずしも映画監督になることと同義ではない。
そして、映画を作る側に参加するための経路がもっと明らかになれば、映画業界の外側にいる人々の意志や資金、知識や人脈も、今までとは違った形で映画製作につながっていくかもしれない。
それが結果として、新しい作品や新しい製作のあり方を生み、映画文化の風通しをよくすることにもつながるのではないだろうか。
映画の危機が語られることも多い昨今だが、作品をどう評価するかという問題と同じくらい、そもそも誰が、どのように映画を作ることができるのかという問題も考えてみたい。
映画祭は、その可能性を観客に開く場所にもなれるはずだ。
ひとまず、札幌で感じた疑問から考えてみたことを書き留めておく。

