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インフィニティ・プールを観終えたあと、私は奇妙な感覚に陥っていた。 いくつかの場面が強く印象に残りながらも、細部の因果が曖昧で、 記憶のなかに濃淡の差をもって沈殿している。
特に中盤以降、私は唐突に「あれ、この映画、似たような実際の事件があったような?」と錯覚していた。 だが、当然そんな事件は存在しない。 クローンに罪をなすりつける制度など現実にはなく、それは映画のなかの出来事にすぎなかった。
にもかかわらず、私の中ではその記憶が現実の一部のように感じられていた。 その瞬間、私は気づいた。 本作が揺さぶってくるのは、単なる倫理の境界ではない。 むしろ、情報と記憶、虚構と現実の区別がいかに脆弱であるかという、 根源的な感覚のほうなのだと。フィクション内での死が現実を侵食する、同じことが現実側でも起こる。科学技術が発展し、創造力が荒廃しフィクションさえ現実のクローンのようになっている。
まさに、クローンに罪をなすりつける描写がニュースとして話題になるシーンが出てきたのはポン・ジュノが手がけた『ミッキー17』である。 そこでもクローンの存在と労働、倫理の解体が描かれていたが、決定的に異なるのは、 『ミッキー17』にはなお“中心に存在があり、愛によって存在が回復される”という希望があったことだ。 本作『インフィニティ・プール』には、それがない。
あるのは、存在の輪郭が制度と情報の処理によってのみ規定されてしまう世界だ。 人間の意志や記憶さえ、金銭とクローン技術と観光制度の中で処理され、 結果として「私は生きているのか/処刑されたのか」という存在の有無すら誰も気にしなくなるような世界観が冷たく展開される。
だがそれこそ、いま私たちが生きている社会の写し鏡なのではないか。
何を見たのか、どこで読んだのか、何を信じたのか。 その輪郭があいまいになっていくとき、 人生自体がただのデータとしての“現実のクローン”になってしまう。 そこでは何を感じるかだけに焦点がおかれ、存在はデータに置き換えられる。この映画は、その入口に私たちを立たせる。
「ゾンビ化する快楽——記号としての陶酔へ辟易」
本作において、もっとも私が距離を感じたのは、快楽をめぐる描写の質そのものだった。 ブランドン・クローネンバーグは、快楽、陶酔、暴力、官能のいずれをも、 過剰に、そして記号的に映し出す。
だがそれは、あまりに“予定調和的”であり、 すでに見慣れた“ドラッグ的視覚表現”の反復のようにも感じられる。 その瞬間、世界は突如として“類型”に堕ちる。 作品冒頭に漂っていたミステリアスな空気は剥がれ落ち、 観客は「これはあのタイプの映画だ」と分類してしまう。 この感覚の劣化こそが、まさに私が辟易とするポイントだった。
この快楽は、もはやみずみずしい身体感覚の噴出ではない。 それはすでに市場で流通している「快楽っぽさ」のテンプレートであり、「アートっぽさ」のテンプレートで、 消費者が欲しがるものを忠実に並べた、パッケージ化された退廃だ。
それゆえ、私はこのシーンを観ながら、ふと疑問を覚えた。 「この映像に“恍惚”を感じてしまう観客は、すでにどこまで呑み込まれているだろう」と。
ここでの快楽描写に“美”や“スタイル”を見出してしまうなら、 その時点で我々はもう、作中の登場人物と同様、 制度のなかで制度に気づかぬまま、快楽を模倣しながら生きるゾンビの仲間入りを果たしているのではないか。
もちろん、クローネンバーグ自身がそれを批評として描いていることは明らかである。 むしろ彼は観客の倫理と感覚の限界を試すために、突如としてこの「薄い快楽の映像」を出現させているのだろう。 この倒錯は、父・デイヴィッド・クローネンバーグがかつて描いてきた身体とメディアの問題系の継承でもある。 その意味で、本作は「ゾンビ的存在としての観客」への批評的鏡像として機能している。
だからこそ、その鏡をただ“美しい”と思って消費してしまう観客の存在にこそ、 この映画のもっともゾッとする皮肉が宿っているのだと、私は感じるのだ。
楽園の制度化——観光と刑実行のインフラ
物語の舞台となる“島”は、表面上はバカンス地として機能している。 リゾート、プール、美しい自然、そして他国から訪れる富裕層。 だが、その下層には、罪と処罰、倫理と暴力までもを観光資源化した制度が、 ごく滑らかに、そして無言のうちに組み込まれている。
犯罪を犯した旅行者は、本来なら国外追放か厳罰を受けるはずだ。 しかしこの島では、その処理方法に“選択肢”がある。 高額な費用を支払えば、クローンを生成し、 そのクローンに自らの罪を引き受けさせることで、自分自身は無傷で帰国できる。
こうしてこの島は、観光地であると同時に、 人間の存在性を“制度化”して再編成する巨大な装置として浮かび上がる。
そして注目すべきは、その制度が非常に滑らかに作用していることだ。 誰も声を荒げることはなく、誰も激しく拒絶することはない。 そこにあるのは、 “犯罪すらも管理されている”という安心感と、 “クローンなら殺しても構わない”という倫理の棄却である。
これは、現代の我々が置かれている情報社会の制度とも通底している。 ——誰が本当に傷ついているのか? ——この情報は誰が操作しているのか? ——これは演出なのか、それとも暴力なのか?
そのようなことを問うのは無粋であり、「制度が存在していること」自体が正当性の保証にすり替えられていく現象。 まさにその縮図が、島の中で展開されている。
登場人物たちはこの制度を遊びやアクティビティーにしていく。 このような「島」は現実社会においても存在しているだろう。
外部との断絶と、島の自己完結性——『インフィニティ・プール』と『ミッドサマー』『マトリックス』の比較
興味深いのは、同様に“異国の地での体験”を描く『ミッドサマー』(2019, アリ・アスター)と比較したときに見える、 空間構造と倫理の位相の違いである。 どちらも異文化圏への“バカンス”が舞台だが、『ミッドサマー』が最終的に提示するのは、 外部としての「聖性」や、傷ついた自己を受容する共同体的構造であるのに対し、 『インフィニティ・プール』には他者の救済は存在しない。
そこにあるのは、あくまで消費可能なリゾート地、制度に組み込まれたレジャー、 そして閉じた制度の中で繰り返される倫理なき快楽と自己の再演である。
ミア・ゴス演じるギャビが「あなたは自分から罠にかかった」と主人公に告げる場面は、 それを象徴する一節である。 つまりこれは、「お前は外部の倫理を求めてここへ来たわけではない」 「むしろ、制度と暴力を望み、そこへ自ら沈んでいった」という非情な事実の提示である。
一方、ミッドサマーでは、異質な共同体が外部から来た者を選び、彼女をその一部に取り込む。 そのプロセスには恐怖と異文化性がある一方で、 「癒し」や「浄化」「愛されること」への希求が、空間的にも示唆されている。
『ミッドサマー』が外部=自然=共同体=浄化というトランセンデンタリズム的構造を秘めていたとすれば、 『インフィニティ・プール』は、外部の不在と内部の反復によって、 存在論的閉塞と制度的ゾンビ性を露悪的に描いている。
さらに加えると『マトリックス』(1999)における覚醒のきっかけが、「空間的違和感」にあることは象徴的だ。 ネオは、街角で感じたデジャヴュ──一匹の猫が二度通ったという僅かなズレに目を留めた。 その瞬間、世界は一つの「プログラム」として剥がれ落ち、彼の現実は新たな次元に突入する。
この“空間のリアリティに敏感である”という資質は、実は覚醒における重要な条件かもしれない。
対して『インフィニティ・プール』の主人公ジェームズには、その感性が決定的に欠けていた。 彼は、リゾートの空間に組み込まれた制度の不気味さにも、殺されたクローンの血の現実感にも、 環境が発する「異常」や「裂け目」に対してほとんど反応しない。 それはまるで、世界に触れる皮膚そのものが摩耗してしまっているかのようだ。
彼にとって空間とは、快楽と制度が同時に与えられる“表層”でしかなく、 そこに「奥行き」や「他者性」や「重力」を感知する感性はもはや機能していない。 ゆえに彼は目覚めることも、逃げることもできず、 ただ滞在し、消費される情報的存在として、そこに居続ける。
『マトリックス』のネオは、違和感によって外部への扉を開いた。 『インフィニティ・プール』のジェームズは、違和感を感じなかったがゆえに、扉の存在すら知らずに内部に埋没した。 この差異は、現代における「空間感覚」の喪失=存在の脆弱性を明示している。その意味で、『インフィニティ・プール』は現代の「存在感覚の喪失」や、エリオットが遥か前から提示していた「感性の分離」そのものを映し出している。 空間を感じ取る感性が奪われ、身体の反応がループし、 私たちはいつのまにか、他者なき制度の中で「ゾンビのように生きる」存在に近づいているのかもしれない。