シンガポールで出会った抹茶ラテ
シンガポールのカフェで出会った抹茶ラテは、日本でよく見るものとは少し違っていた。下にはベリーやシロップの甘い層、中央にミルク、最後に上から濃い抹茶が注がれてグラデーションを描く。スプーンで混ぜると美しい層は消えてしまうのだが、混ぜる前の光景はきわめて映える。台湾発祥のティーカルチャーが輸出した「層構造ドリンク」の延長線上にあるらしい。
日本でこのタイプの抹茶ラテを見かけることはあまりない。抹茶といえば、和菓子に合わせて供される「和の精神」を象徴する飲み物。だが、シンガポールのカフェで体験したものは、あからさまに“他者の手”によって翻訳された抹茶だった。私はそのカップを前に、「そもそも抹茶って日本由来?」と素朴に考え込んでしまった。
抹茶の起源と語源
「抹茶」という言葉は、読んで字のごとく“抹する=粉にする茶”から来ている。葉を石臼で挽いて粉末にし、湯に溶いて点てる飲み方。それ自体は日本独自ではなく、宋代中国の点茶法がルーツだ。12世紀ごろ、禅宗の僧・栄西が中国から持ち帰り、修行や儀式の中で取り入れたのが日本の抹茶文化の始まりとされる。
つまり、抹茶は最初から「外来文化」だった。それが日本で独自の精神性や美意識と結びつき、後に「茶道」として体系化される。私たちはよく「抹茶=日本の伝統」と口にするが、それは正確には「翻訳された伝統」だ。元来は輸入文化であり、それを“日本的”に様式化した結果が今日の抹茶である。
茶道の形成と様式化
千利休の時代、抹茶は単なる飲み物ではなく、文化的実践として「茶道」に昇華された。
利休は茶を点てる行為を、道具の選択、空間の設え、所作の美学にまで拡張した。茶碗や茶杓は唐物や南蛮渡来のものを取り入れながらも、日本的な「侘び寂び」の精神に沿って再解釈される。つまり茶道とは、外来文化を「日本の様式」として再構築する営みだった。
この過程にこそ、日本文化の特性が現れている。飲料そのものの味よりも、道具の配置や空間演出、さらには客と主のやり取りを「形式化」することで独自性を生み出す。その意味で、茶道は飲み物の文化ではなく「体験の文化」だと言える。
現代ビバレッジ文化との比較
一方で現代のアジアに広がるティーカルチャーは、また別の方向性を示している。台湾のタピオカミルクティーに代表される「層構造ドリンク」は、飲み物そのものに遊び心と視覚的インパクトを持たせる。甘いシロップ、カラフルな果実、濃厚な茶。それらが一杯のカップの中で「物語」を構築している。
アメリカ西海岸では、スターバックスが「抹茶ラテ」を商品化し、抹茶を“スーパーフード”として世界に広めた。ただしそれは砂糖とシロップにまみれ、日本人が考える抹茶とはずいぶん異なる。
興味深いのは、日本自身がこの動きに乗り遅れていることだ。日本のカフェ文化は、飲み物そのものの革新性よりも「空間デザイン」や「落ち着ける場所」としての価値を重視してきた。そのため、飲料自体の実験性は海外経由で逆輸入されているのが現状だ。抹茶ラテがスタバや台湾ティーショップを通じて再び日本に戻ってくるというのは、奇妙でありながら必然的な流れにも思える。
結論──様式の再発明は可能か
抹茶は確かに「日本文化」を象徴している。しかし起源まで遡れば、それは外来文化を翻訳したものであり、専売特許ではない。むしろ日本の強みは「翻訳し、様式化する能力」にある。茶道が輸入文化を洗練された体験へと変えたように、現代でも同じことができるはずだ。
シンガポールで見た抹茶ラテの層構造は、ポストコロニアルな文脈を想起させる。どこの文化でもない「間」の産物が、新しいアイデンティティを形成する。日本がもし“飲料文化の希薄さ”に悩むなら、解決策は単なる模倣ではなく、再び「様式を創造すること」だろう。カフェという空間や、その中での所作、味覚と視覚の演出を含めたトータルな体験として。
抹茶ラテのグラデーションは、単なる飲み物以上のものを映し出している。それは文化の層構造そのものであり、私たちがこれから再発明できるかもしれない“新しい茶道”のプロトタイプなのかもしれない。