ヒューマニストの夜:矛盾を生きられない者たち
『Humanist Vampire Seeking Consenting Suicidal Person』にみる倫理的ナルシシズムと現代ヒューマニズムの危機
ロマンティックな倫理の崩壊としての青春映画
『Humanist Vampire Seeking Consenting Suicidal Person』(以下『HVSCSP』)は、そのタイトルの甘美さとは裏腹に、観客に強い不快感を残す作品である。
青春映画的な恋愛の文法をまといながら、その内部では「倫理」「同意」「救済」といった現代的語彙が反転し、暴力の正当化装置として機能していく。
この映画が提示するのは、単なる吸血鬼の寓話ではない。
むしろ、他者を傷つけずに生きようとする倫理的願望が、いかに暴力の形で現れるか——その心理的・社会的メカニズムである。
言い換えれば本作は、「善良であろうとすることが、いかに残酷でありうるか」という現代ヒューマニズムの逆説を描いている。
弱さの演出と支配の転位
人間の主人公の一人であるポールは一見、社会的弱者の典型として描かれる。 教室では孤立し、いじめられても反抗できず、痛みを感じながらも沈黙する。 彼の「弱さ」は、行為の不可能性として設定されている。 だが、その沈黙は受動的であると同時に、周囲への無言の支配でもある。
彼は“何もできない者”であることによって、他者に罪悪感を発生させる権力を持っている。
興味深いのは、彼が女性であるサーシャと出会った瞬間に、まるで別人のように饒舌になる点だ。
その変化は、単なる恋愛感情の発露ではない。
彼にとってサーシャは、「自分の弱さを言語化してくれる他者」であり、その理解を得た途端、ポールは自らの弱さを道徳的優位の手段として使い始める。彼の暴力は無作為ではない。
彼が攻撃するのは初めは女性であり、男性には向かわない。 男性であるいじめの首謀者アンリに報復する前、 彼は“練習台”として女の同級生を狙う。
つまり、ポールにおいて暴力は「正義のため」ではなく、 支配可能な他者の範囲内でのみ発動する。
これはデュルケーム的に言えば、アノミー的社会の中で自らの境界を取り戻す試みであり、
同時に「力を持たない者による力の行使」という倒錯である。
彼の弱さは本質的に暴力的だ。
それは他者を罪悪感によって拘束し、同情を操作する力として機能する。
ポールは「傷ついた者」として登場するが、 その語りは最初から加害の準備で満たされている。
倫理的ナルシシズムと清潔さの信仰
一方で、吸血鬼のサーシャは人を殺したくないヴァンパイアとして描かれる。
彼女の“良心”は純粋で、観客の共感を誘う。
だが彼女の家族は異なる立場を取る。
家族や親せきの吸血鬼たちは 「やりたくないけれど、やるしかない」という吸血鬼の生存戦略として、他者を犠牲にせざるをえないことを引き受けながら生きている。
それは一種の成熟、あるいは倫理の現実主義である。サーシャはその矛盾に耐えられない。
彼女にとって「倫理的であること」は、 現実を受け入れることではなく、現実から距離をとる手段である。
その意味で彼女の倫理は、清潔であることへの信仰に近い。
罪を犯さないことよりも、汚れない自分であり続けることが目的化している。
そのナルシシズムは、“ヒューマニズム”という言葉の柔らかさに包まれて見えにくいが、
実際には最も排他的な構造をもっている。
ここで言えるのは、サーシャの“善良さ”はシミュラークルとして機能しているということだ。
倫理が再帰的に消費され、 「善良な自分を演じること」が倫理そのものと同義になっている。
彼女の“良心”は他者への配慮ではなく、自己像の管理である。 そしてこの“倫理的ナルシシズム”が、 彼女を暴力の正当化へと導いていく。
“同意”と合理化 ― 倫理の装置化
二人が見出す「死を望む人から血をもらう」という解決策は、表面的にはエシカルな合理化である。
しかし、この「同意に基づく殺し」は、 倫理のパフォーマンス化を象徴している。
ここでは暴力が「同意」という言葉の中に包み込まれ、行為の暴力性は透明化される。
現代社会における“エシカル・コンシューマリズム”がそうであるように、人は「他者を傷つけない」という理念を消費することで、自らの責任を最小化する。
だがその“やさしさ”の構造は、 実は他者の死や搾取をより洗練された形で維持する。
「良心的である」という形式が、 最も効果的な暴力の免罪符になるのだ。
アーレントが「悪の凡庸さ」と呼んだものは、
まさにこの種の倫理的自動機械である。
誰も悪意をもたず、むしろ“良心的に”暴力が遂行される。
『HVSCSP』はその構造をロマンティックな語りに包んで提示する。
観客が「仕方ない」と感じる瞬間、すでに倫理的暴力は成功している。
ヒッピー的共同体の亡霊 ― 「愛」と暴力の再生産
サーシャとポールの関係は、共依存的な癒やしの共同体として始まる。
だが、互いの「倫理的欠損」を補完しあう構造は、閉鎖系としての暴力を内包する。
彼らが信じる“同意”と“愛”の原理は、かつてのヒッピー運動が掲げた「自由」「共同体」「平和」と同じように、やがて暴力の言語へと転化する。
ここにはチャールズ・マンソンのファミリー的構造が見てとれる。
「愛と解放」の共同幻想のもとで、暴力が“正しいこと”として遂行される。
サーシャとポールもまた、矛盾を生きられない者たちの共同体を作る。
そしてその共同体は、倫理的な言葉を介して再生産される。
それは救済の顔をした暴力であり、現代社会の多くの“正義の共同体”に潜む構造と酷似している。
ヴァンパイアの存在論 ― 矛盾を喪失した人間
ヴァンパイアという存在は、 人間的な苦痛や有限性を拒む象徴である。
太陽を避け、食を絶ち、老いを超越する。
だがその超越は、豊かさの喪失でもある。
ポールが太陽と食を失うことは、 “生きることの矛盾”を捨てることにほかならない。
彼は痛みと快楽、苦悩と喜びといった振幅を放棄し、永遠に変化しない合理的な夜へと逃げ込む。ここでヴァンパイアは、「矛盾を排除する近代合理主義の帰結」として読める。
永遠に若く、永遠に純粋で、永遠に未熟。
その存在は、変化と老いを恐れる文明の比喩だ。
死を拒むことは、成熟を拒むことでもある。
“永遠の命”とは、成長の機会を永久に失うことなのだ。
結語:ヒューマニズムの闇と矛盾を生きる力
サーシャとポールは、倫理的であろうとした。
しかし彼らの倫理は、他者とともに矛盾を引き受けることではなく、
矛盾を消し去るための道具だった。
その意味で彼らは、現代ヒューマニズムの極端な鏡像である。
私たちは“痛みのない共感”を理想とし、“正しさ”を倫理の代替物として生きている。
だがその結果、倫理はますます感情化し、暴力を温存するための言語に変わっていく。
「矛盾を生きる力」こそが、本来の倫理の根である。デュルケームが『自殺論』で述べたように、
社会とは矛盾の中で個人が意味を見出す場である。
その矛盾を否定する社会は、生のエネルギーを失い、閉じた共同幻想に沈む。
『HVSCSP』が描くのは、まさにそのような世界だ。
矛盾を排除しようとするたびに、人間はヴァンパイアに近づく。
太陽の下で、痛みとともに食事をする—— その単純な行為こそが、倫理の最後の証かもしれない。
矛盾は不快であり、痛みを伴う。
だが、それを抱きしめることだけが、 「人間である」ということの意味をかろうじて保つ。
矛盾を抱けなくなった社会の夜、そこでは優しさが支配の形式となり、正しさが他者を沈黙させる。
私たちが問うべきは、もはや「何が正しいか」ではない。
「どのように矛盾とともに生きうるか」である。それが本来はヒューマニズムを超越しうる可能性を宿す文学の力のように思う。
