1. はじめに──制度の外で育つということ
両親がアナキストとネオリベの悪魔合体のような思想を持っていた。国家や制度に期待せず、自己責任と自己表現を当然のように選び取って生きる人たちだった。その価値観の中で育った自分は、社会的な共感や制度的な承認を必要とせずに日常を成立させている。たとえば、両親は結婚という制度に入らなかったが、家庭は崩壊することなく機能していた。母はよくこう言う。「そんなことで揺らぐ家族観なら、最初からやめた方がいいでしょ」
この立場にいると、「共感力がない」と言われることがある。しかし、そうではない。ただ、自分が信じている自由や関係の在り方が、他者の文脈とあまりに違いすぎるだけなのだ。
2. 思想史の交差点──自由を至上とする二つの系譜
アナキズムとネオリベラリズムは、理論的には対極にある。前者は反権力・反国家を掲げ、共同体的な連帯を重視する。一方、後者は市場の自由を信奉し、国家の介入を忌避する。しかし両者には、「個人の自由こそが最大の価値である」という共通の核がある。自分の生き方は自分で決める。他者の承認や制度的な安全網に期待しない。そのような思想は、日本においては文脈を飛ばして輸入され、「自分の好きにやれ」のスローガンとしてだけ残ったように見える。
その結果、ある種の家庭環境では、子どもが「世界は誰も助けてくれない。でも、助けなんて最初からいらない」と無言で教えられることになる。
3. パンクとその変容──自由の表現からブランドへ
70年代のUKパンクは、階級社会や管理社会への怒りを原動力とし、DIY精神と共に現れた。アナキズム的なスローガンや、制度に依らない美学は、政治的主張というよりも、スタイルと生き様そのものだった。しかし、80年代以降、それらは「アナーキー」や「DIY」という記号へと消費されていく。
反体制は商品になり、ストリートはブランドになる。自由の表現は、資本主義の中で“選ばれるスタイル”へと変質していった。
4. ゴスとユートピア──世界と距離をとる感性
ゴスは怒りではなく、距離と美学によって世界と接続する。政治的な態度を明示することよりも、「ここではないどこか」を希求する衝動。従来の社会的カテゴリーにうまくはまらない人々が、服飾、音楽、振る舞いの中で自分の在処をつくり上げていく。その感性は、自由という言葉よりもむしろ"逃走"や"沈黙"に近い。
ここにあるのは、言語化された政治主張ではなく、感受性の共有、そしてそれを支える審美眼の交換だ。
また、ゴス的な感性において重要なのは、「自分がどうあるか」を忘れるほどの美や体験に没入することだ。自己を見つめ続けるのではなく、むしろ一時的にでもその境界を越えるような感覚。自分自身を美に解放するための旅路。そうした姿勢は、パンク的な破壊衝動とは異なる、ある種のディレッタント的貴族性とも重なってくる。
5. 無関心と冷笑──本当に守りたいものへの集中
「声をあげないこと」は、無関心ではない。むしろ、声をあげることが制度化され、消費されることで空洞化していく現代において、あえて語らない自由を選ぶ態度もまた、倫理的である。
冷笑主義はしばしば感情の欠如と捉えられるが、実のところ、それは過剰な期待から身を守るための防御機制であり、むしろ高い倫理性と繊細な感受性の裏返しでもある。声をあげない人が倫理を欠いているわけではない。逆に、他者に深く期待しているからこそ、軽々しく期待を表明できないのだ。
無関心であることによって、より重要なことに労力を使う。自己を過剰に主張するのではなく、自己を超えていくような経験や、誰かとの審美眼の共有にこそ集中したい。そのほうがよほど政治的であり、深く誠実だと感じる。
6. おわりに──これは主張ではなく、生き方のかたち
結婚しなくても困っていない。別姓でも混乱はない。困っていないことをわざわざ制度化してもらう必要があるだろうか?もちろん、制度によって救われる人がいるのも知っている。しかし、自分はただ、制度の外側で、自分の輪郭を保っているにすぎない。
これは思想ではなく、美学の話だ。誰とどんな距離で生きるか。何に対して感度を持ち、何に関心を持たないか。政治的な主張ではなく、日々の鍛錬と選択の積み重ねとしての自由。
こういう生き方や幸せもあるよ、という話だ。人生は有限だし、この情報過多の時代において、どこに興味関心を向け、何に時間を使うかが一番重要じゃないかと思っている。他人の目を気にして満足できる人は、それでいい。でも自分は、自分すら忘れるほどのものに出会いたい。そのために力を使いたい。